第466話 たまにはサボってみるもの

 

 少なくとも刻印成功率の期待値は出せた休日明け。眠気を振り切るように朝の走り込みをしている最中に、努は迷宮都市の外壁工事が行われている風景を眺めていた。

 もう数年は稼働しているのか歴戦の雰囲気が漂っているシェルクラブが石材を持ち上げ、近くの召喚士が運ぶ位置を口頭で指示している。その上では防衛設備の点検を行っているのか、貴族の私兵団が揃って馬鹿デカい綿棒のようなものを大砲に突っ込んで清掃を行っていた。


(そろそろスタンピードの時期か。前より安定してるって聞いたけど、どうなんだろうな)


 探索者が死ぬことのない神のダンジョンにばかり潜ってしまうようになったことで、自然と成立していた外のダンジョンの間引きは何年も行われなくなってしまった。そのことは現場の迷宮制覇隊が警鐘を鳴らしていたものの、それが無視された結果として暴食龍が出現することとなった。

 それからは上位の探索者たちが定期的に外のダンジョンのモンスターを討伐することはほぼ義務化され、その後はあのような大規模のスタンピードが起こることはなくなっていた。

 それに現状では虫系のモンスターの女王であるミナが迷宮都市の手中にあるため、間引きは更に効率化していた。何せ虫系モンスターの大半は彼女の命令に逆らえないため、モンスターを同士討ちさせることも容易い。女王蜘蛛《クイーンスパイダー》のようなボス級のモンスターこそ操れないものの、彼女の貢献によってスタンピードによる死人は目に見えて減った。

 しかし虫系モンスターがミナの管理下にあるという状況が永遠に続くことなんてあるのか、いつか統率が取れなくなった時に大損害が出るのではないかと懸念する声も多い。とはいえその懸念の声を作り出しているのはアルドレットクロウの一部、ということも事実ではあるようだ。もうあれから五年は経っているだろうが、未だにその傷を抱えている者はいるらしい。

 そんなことを考えながら時折自分と同じように外壁付近を走っている少年から初老の人たちを抜き去っていると、後ろから明らかに速い足取りで駆け寄ってくる足音が聞こえてきた。ちらりと様子を窺う間もなく追いついてきた仏頂面の犬人は、べしんと急かすように藍色の大きな尻尾を当ててくる。


「すまん」
「ペース遅ぇとでも言われてるのかと思ったよ」
「……すまん」
「いや、そんなに落ち込まなくても」


 どうやらケツを叩かれたのは被害妄想だったようで、単純な事故で尻尾を当てたらしいガルムは汗で濡れた犬耳をしょんぼりと下げていた。そして目に見えて走る速度を下げた彼を見上げながら、努も少しペースを落とす。


「今日は一周差つけようと思ったんだけどなー」
「……時間差でか?」
「今日は随分と遅いね? みたいな感じで」
「そもそも、ツトムは毎日走っていないだろう。忙しいようで何よりだが」
「お陰様で」


 刻印油集めに関しては多少協力していたこともあってか努の刻印事情についても知っていたガルムは、段々と成果が出ていることも把握はしているようだった。だが感心はしていないような顔のまま言及する。


「鍛錬を疎かにするのは少し頂けないがな。リーレイアも怒っていた」
「絶対この後追いつかれるよね。それが嫌で早めに出たのに」
「……意地が悪いぞ。何か言いたげにしているのだから、素直に聞いてやれ」
「説明しても中々理解してくれないしなー。結局、結果を示す方が早いっていう。でもガルムはガルムでおかしいけどね」
「何がだ?」


 軽く息を整えながら心底不思議そうに首を傾げてきた彼に、努は神妙な面持ちで前を向いたまま走る。


「元々探索者してた人がいきなり一から刻印士になるなんて言い出したら、普通は反対するもんでしょ。それに賛成するような人は僕に間違った方へ向かってほしいか、心底興味のないような人くらいだよ」
「ツトムなら大丈夫だろうと思っていた」
「どうだろうねー。本当は興味なかったりして?」
「…………」
「え? マジで?」


 言われてみれば確かに、といった顔のまま固まったガルムに努は会話の間を埋めるように突っ込んだ。すると彼は取り敢えず否定するように首を振った。


「同じようなことをリーレイアにも言われたことがあったことを、思い出していただけだ。……確かそれについては、私が考えている間にゼノが答えを出してくれていたな」
「へぇー」
「あいつはツトムの言っていたことに納得はしていなかったようだが、一種の賭け、というと聞こえが悪いな……。ともかく、ツトムに対して私財を投げ打つ価値はあると判断した。そのことをリーレイアに腰を据えて事細かに伝え、彼女もそれで理解を示したようだった。それで話は流れたから良かったと思っていたが、興味がないからこそ何も言わない、と言われるとゼノのような反論をすることは難しいかもしれん」
「……なるほど?」


 そう肯定したはいいが、いまいち納得していなかった努は言葉を重ねる。


「えーっと、それじゃあガルムは僕が何をしようと興味が湧かないってこと?」
「ツトムなら何をしても上手くやるだろう。私が口を出さずともな」
「あのー、それは信頼しているからこそ、っていうことでいいんだよね?」
「……実は間違った方向に向かってほしいのやもしれんな。そうすれば私が再び無限の輪のクランリーダーに返り咲くことができる」
「それなら今すぐクランリーダー譲りますけど?」
「…………」
「おい、待て」


 そう提案するや否や知らんぷりでもするように走り去ろうとしたガルムに努は何とか食らいつく。


「私はクランメンバーの一人という立場の方が性に合っている。冗談でも止めてくれ」
「でもドーレン工房の人はガルムの方が良かったって言ってたよ?」
「……誰だ? そいつは」
「いや、名前までは言わないでおくけど」
「ふん、ならそれはツトムの妄想に他ならんな」
「僕以外にも証人はいるけどね」
「何処のどいつだ?」
「言わないけど」


 久々にそんな軽口を交わしながら緩めに走っていると、先ほどと同様明らかに一般人ではないペースで走ってくる足音が聞こえてきた。それに犬耳をひょこひょこと動かして反応したガルムは問い詰め顔のまま口を開く。


「今となっては最早探索者の常識にまでなっているが、五年ほど前のタンク職は頑丈な荷物持ちが精々だった。だがその常識が塗り替わるのを私は当事者として見ている。だからこそツトムが帰ってきて早々に妙なことをしていると思いはしても、またあの日のように塗り替えるのだろうと信じていた。……あの時に、そう答えてやるべきだったのだろうな」
「妙なことして悪かったね」
「だが、リーレイアも悪意を持ってツトムの行動を批判しているわけではない。むしろ私なんかより真剣にツトムのことを考えているようにも思える。正直私は、リーレイアに疑問をぶつけられなければ考えもしなかった」
「……うん。確かにそう言われると難しいね。全肯定のガルムと全否定のリーレイア。どっちの言うことを聞いても僕としては駄目になりそう」
「……そうかもしれんな」
「逆に三人なら中和していい感じになるんじゃない?」
「断る。リーレイアの言い分も聞いてやれ」


 そう言うや否やガルムは地面を蹴り出してヘイストでも付与しているのかという速さで走り去っていった。いっそのことスキルをフル活用して追いついてやろうかと思ったが、まるで順番待ちでもしていたかのように彼女はすぐに並んできた。


「おはようございます」
「……おはようございまーす」


 校門で荷物チェックをしている先生にでも挨拶するような声色で、努は涼しい顔をしているリーレイアにそう返した。そんな彼女はもう個人の判別もつかないほど距離が離れているガルムを見て皮肉げに鼻を鳴らす。


「面倒事に目を背けるのは相変わらずなようで」
「僕も嫌なことからは逃げたいよ」
「それなら逃げてみてはいかがでしょうか? 日々の鍛錬を怠る者には無理でしょうが」
「そっすね」


 遠慮がちな空気を出しながらも大回りの全速力で通り過ぎていったコリナとエイミーを羨ましげに見やりながら、努は諦めるように歩きだす。そんな彼にリーレイアは怪訝そうな顔をして振り返った。


「別に置いていくつもりはありませんので、少し走りませんか?」
「疲れたからパス」
「……そこまで消耗しているようにも見えませんが」
「ここから引き返した方がクランハウスからも近いだろうし」
「以前のディニエルみたいな我儘ですね。貴方自身がそれを否定したのではありませんか?」
「僕にとっては朝に走ることが神のダンジョンの探索より重要なわけじゃないし、適度に手を抜くことを否定したことはないと思うけど」


 そう言っていよいよ立ち止まってしまった努に、リーレイアは若干焦れたように前方へと目を向ける。だがいよいよ諦めたようにため息をついた後、足を止めてゆっくりと逆走していく努に付いていった。


「……やはり嫌がらせとなると群を抜いていますね」
「いや、そんなに嫌なら走って来ればいいでしょ。ガルムからある程度事情は聞いたけど、僕はリーレイアが間違ってたとも思ってないよ」
「ですが――」
「コリナに説明しても要領を得なさそうな顔してたし、ゼノは一種の賭けで協力したみたいだしね。ガルムは逆に僕を信頼しすぎて駄目な時もあるし、ハンナは単に馬鹿なだけだし、ある程度の結果が出るまでは気が狂ったと思われても仕方ない」
「……私が騎士ではなく探索者になると宣言した時、家族からの理解はどうしても得られませんでした」


 突然後ろからぽつりとそう言ったリーレイアに、努は何を答えていいかわからず口を噤む。


「今になって考えれば無茶な宣言だったと思えます。ですが私の人間性が騎士に向いていないことは父も母も、兄すらも理解していた。それでも一向に騎士以外の道を認めてくれない家族と縁を切る覚悟で私は迷宮都市まで来ました。でも、出来ることなら少しは信じてほしかった。当時でも多少は成果を出していましたから」
「そうなんだ」
「そんな自分の経験すら忘れて反射的にツトムの行動を否定したことは、私自身が許せないことです」
「……なるほど。その心がけは立派だと思うよ」


 そして最後には横に並んで目をきちんと合わせてそう言ってきた彼女に、努は紛れもない本心でそう返した。そして気まずそうに汗で濡れた髪を指先で掻く。


「でも、正直に言うと僕はそこまでリーレイアに信じてほしいとも思ってなかったんだよね」
「……確かに、ガルムやハンナだけでもツトムにとっては十分だったかもしれませんね。ですが、私も――」
「いや、そもそも誰からも賛成されるようなことってさ、大して価値がないと思うんだよね。つまりそれは誰にとっても想定内ってことじゃん? だから僕からすると、まともなリーレイアが否定してくれたことが嬉しかったんだよね」
「……?」


 努の言っていたことがあまり理解出来なかった、というよりは想定外のことを突然口にされたリーレイアは目を見開きながら表情を固めた。それを表面上で捉えた努は説明が足りなかったと思い話を続ける。


「探索者から刻印士になるってことが非常識だと思われてるってことは、その分競合相手がいないってことになるよね? それこそリーレイアみたいにまともな考えが出来る人が参入してこないわけだから、そこで勝負するのはその分楽なんだ。……まぁ、既存の生産職からここまで叩かれることは考えてなかったから全てが計算通りってわけでもないんだけど、結果としては想定以上に運べてるんだよね。僕の叩かれ具合を見て参入してくるような気合い入った人はいなかったみたいだし」
「……なるほど。つまり私は、試金石のようなものだったと?」
「そんな感じ! ……だと思いますね。はい」


 リトマス紙という例えしか頭に出てこずモヤモヤとしていたところにわかりやすい答えを出された努は、思わず歯に詰まっていた物が取れたような声を上げた。ただこちらを見ているリーレイアの目が獲物を狙う蛇そのものだったため、声は小さくなった。


「何を今更取り繕っているのですか? よく反応を示す試金石で良かったではありませんか」
「いや、試金石は聞こえが悪いかな? えーっと……」


 しかしどう考えてもリトマス紙が頭にこびりついて中々思いつけずにいる努に、リーレイアはふと笑った。


「……別に構わないですよ。ただ、自分の過去すら忘れて貴方の行動をすぐに否定してしまったことは、何より私自身が許せません。なのでツトムが私の言うことなど一切気にせず、むしろ手頃な試金石扱いをしていようとも、あのことについては謝らせて下さい。すみませんでした」
「はい、こちらこそご心配おかけしました」
「……心配、ですか。どうでしょう。……そういえばあのオルファンがきな臭いと噂ですが、抗争にでもなるのですか?」
「さぁ? アルドレットクロウに誑し込まれてるとは聞いたけど……どうした?」
「あぁ、いえ。あんな風になっているところを見たことがなかったので」


 ここ一週間ほど走っている時に横目で確認はしていた、外壁工事の重機として活躍しているシェルクラブ。そんなモンスターが休憩するように足を休めたところで、それを待っていたかのように駆け寄ってきた子供たちに好き放題よじ登られている。

 そんな微笑ましい姿を初めて見て、リーレイアはたまには逆走も悪くないなと思った。

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