第499話 雛鳥の刷り込み

 

 努がガルムとエイミーと話す姿は、ハンナから見ると普段は不愛想な猫が友人にだけ擦り寄っているように見えた。

 そりゃあ、努からすればガルムとエイミーは初期のクランメンバーということもあって特別な存在なんだろう。だがハンナにとっては無限の輪を立ち上げた初期PT。努、ダリル、アーミラ、ディニエルもまた特別な存在だった。

 アルドレットクロウに在籍して活動していた時も多少の手応えこそあったが、一軍にまで上がるには何かが足りない感覚があった。だが無限の輪に入って避けタンクとして活動してから、ハンナは一番台で活躍できるまでに駆け上がった。

 それは羽タンクと馬鹿にされていたあの時の自分をスカウトしてくれた努は勿論だが、同期のダリルやアーミラと切磋琢磨し、村長よりおっかないディニエルに尻を叩かれたあのPTだったからこそだ。

 勿論他のクランメンバーも好きではあるが、思い入れがある者を挙げるとするならば無限の輪の初期PTだ。そんな四人が集まる切っ掛けとなった努が帰ってきたことは、ハンナにとってはあのPTの再来を予感させた。

 しかしある程度改善の兆しこそ見えど、相変わらず今の無限の輪には努しか帰ってきていない。それにダリルとアーミラはまだしも、恐らく一番溝が深いであろうディニエルについては未だに絶望的である。このままでは自分にとって特別なあのPTメンバーが揃うことはないだろう。

 それなのに、努はもう満足したような顔で二人と喋っていた。そもそも、何の相談もせず突然姿をくらませて無限の輪が離散する切っ掛けになったのも努のせいだ。なのに努だけ理想の関係を築いてずるくない?

 そんな嫉妬の気持ちを抱えている内に、ハンナは気付けば努に引っ付いていた。

 クロアが尊げに見ているようなその光景をとにかく崩してやりたかった。それにこれぐらいしても努なら大丈夫だろうし、何なら自身の魅力が通じるか試したい気持ちすら湧いた。これになびいてくれればディニエルと仲直りさせる交換材料になるかもしれない。

 実際努の反応自体は悪くなかった。ただ物凄いお金を騙し取られた時でもけらけら笑って済ませるような彼から何処か気遣うような目で見下ろされた時、そんな下心が見透かされた気がして自分のした行動がとても恥ずかしくなってしまった。

 それからは努とまともに目を合わせることも出来なくなり、ハンナはクランハウスでも徹底的に彼を避けて自室に引き籠った。そして魔流の拳の道場で泊まり込みすることをオーリに告げ、翌日の朝に目を覚ましてから瞑想に耽《ふけ》った。


「てーーい!!」


 道場の庭でハンナの繰り出した拳はうねる風を生み出し、樹齢数百年の木々を大きく揺らす。その背後に控えていた魔流の拳の門下生は見たことがない木々の揺れ具合に唸っていた。

 心が乱れれば拳も乱れる。特にその乱れが致命傷になりうる魔流の拳において、自身の心を鎮めることは非常に大事なことだ。その基礎を山籠もり修行で叩き込まれていたハンナは、昨日乱された心を落ち着かせて魔流の拳を使える下地を取り戻していた。


(ステファニーみたいになっちゃったらどうしようかと思ったっすけど、まぁ大丈夫そうっすね! 瞑想は裏切らないっす!)


 心が乱れた原因もいわば鍵を閉め忘れた脱衣所で居合わせてしまったようなものなので、瞬間的には大ダメージだが努相手なら後遺症が残るほどではない。

 そして一通りの魔流の拳の型を確認して乱れがないことを確認したハンナは、名残惜しそうな門下生に見送られつつ普段の集合時間にギルドへと向かった。


(……もういるっすかね?)


 だがいざギルドの前まで来てみると若干心が乱れるのを感じたので、ハンナは一旦深呼吸しつつそろそろとギルドに入った。そして柱の影からいつもクロアと合流するベンチを遠目で確認すると、既にエイミーやユニスはそこに見えた。だが肝心の努だけいない。


「おはよう」
「……な、なんで後ろにいるっすか?」
「トイレ行ってたんだよ。ちょっとこっち来てもらえる?」


 振り返らなくてもわかったその声の正体は、にべもなくそう言うと横に回ってきて不審者でも連行するように手招いた。


「ど、どこに連れていく気っすか? 今日、150階層行くっすよね?」
「そのための前準備が必要かと思ったんだけど……昨日と違って割と落ち着いてるみたいだね。……まぁ、こんなうるさい中じゃエイミーでも聞き分けられないか」


 獣人たちの盗み聞きを気にしていたらしい努は、適当に目星をつけた食堂の席に座った。そんな彼に目で促されてハンナも正面にちょこんと座る。


「で、昨日のあれは何が目的だったわけ?」
「…………」
「……前に冗談で言ったこと気にしてるとか?」
「えっ?」
「あぁ、そうでもないんだ……」


 ハンナの素っ頓狂な声で自分の当てが外れたことを理解したのか、努は困ったように視線を投げかけた。


「……ほら、あれっすよ。ちょっとしたノリというか」
「ハンナがちょっとしたノリで露骨に抱きついてくるとも思えないけど。異性関連のトラブルは懲り懲りそうだし」
「うっ……」


 それこそまだ村で暮らしていた当初から、周囲と比較しても自信の胸が大きいことは嫌でもわかった。そして異性から無遠慮に向けられる視線は勿論、教会から派遣されてきた布教も兼ねた教育担当の男に鼻息荒く迫られた時から、どれほど異性に対して威力があるのかも。

 それに心底うんざりして迷宮都市まで出てきてもその視線や異性からのトラブルはそこまで変わらなかったので、何処に行っても変わらないことを理解したハンナは自然と処世術を身につけていった。


「……師匠だけ、初期メンバーと仲良くしてるのはずるいって思ったからっす」
「うん?」
「あたしにとっての初期メンバーは、師匠と、ダリルにアーミラ、ディニエルっすから。なのに、師匠はもうガルムとエイミー戻ってきたら満足そうじゃないっすか。このままクロアとユニスも入れて穴埋めかーって。……二人を無限の輪に入れる気はないとは聞いてたっすけど、その時はそう思っちゃったっす」
「……なるほど。確かに、クラン離散させた原因作った奴がよくもぬけぬけとって感じかもね」
「まぁ、そんなところっす」


 昨晩寝る前に自分の気持ちを整理していたからか、ハンナは観念するように告げた。そんな彼女の明け透けな答えには努も何か思うことはあったのか、申し訳なさそうに表情を沈ませる。


「無限の輪を離脱したメンバーにまだ戻る意思が残ってくれてるなら、戻ってきてほしいとは僕も思ってるよ」
「……あたしだって、少しは師匠のことをわかってるっすよ。ディニエル、まだ許してないっすよね? じゃあスタンピードから帰ってきて無限の輪に戻ってくるって言ったら、師匠はどうするっすか?」
「……そうはならないと思うけど? ディニエルはあくまでヒーラーとして追いついてくることを前提にしてるみたいだし、突然戻ってくることはないんじゃないかな」
「いいから白状するっす! あたしはちゃんと言ったっすよ?」
「どうだか」


 まるでこちらの心情を理解しているかのような態度で目線を投げかけてくる努に、ハンナの青翼は急速に萎れていく。だがすぐに踏ん切りがついたのか開き直るように翼を広げた。


「ちょーーっと身体で釣れないかなとも思ってたっすよ!! それでディニエルと仲直りしてくれるなら別にいいかなって! ほら! あたしはもう全部言ったっすよ!!」
「……えぇ? いや、仮に僕がそれに釣られてディニエルと仲直りしたとしてもさ。根本的な問題は解決してないからいずれ仲悪くなると思うけど」
「そもそも師匠、そういうのにはなびかない人じゃないっすか! それ前提っす! 別に本気で考えてたわけじゃないっすから!」
「状況によっては全然なびくけどね。もしかして僕のこと性欲皆無の聖人とでも思い込んでる?」
「えっ……」


 でも実際のところ努の浮ついた話は一切聞かないし、ハンナの実感からしてもその認識だった。お風呂上がりにリビングでこれ見よがしにストレッチでもすれば視線の一つは貰うが、普段はそういった視線がほとんどない。それこそ探索している時は皆無といってもいい。

 そういったこともあってかペットの発情期でも見てしまったかのように絶句したままのハンナに、努は気まずそうに指で頭を掻く。


「まぁ、他の男性と比べると性欲で動くことがあんまりないのは事実だけどね。それこそレオンとか、凄いなとは思うけど立場代わりたいかと言えば絶対に嫌だし。……ルークは意外と近いかもしれない。ハーフエルフって種族的に性欲薄そうだし」
「……確かに師匠、エルフっぽい感じするっす」
「でも僕は人間だし、別に性欲そのものがないってわけではないからね。わざわざ金と時間とリスクを犯してまで解消したいとは思えないけど、ちょっとした手間で拾えるぐらいなら拾うよ」
「へーーーー。そうなんっすね。結構意外っす」


 新たな側面でも目撃したかのような声でハンナは感心したが、ふと気付いたように言葉を続ける。


「……ってことは、あたしは拾えるぐらいの手間ってことっすか?」
「だるいだるい」
「は? 何がっすか?」
「クランメンバーに手を出すとかリスク高すぎでしょ。初めはいいかもしれないけど、関係拗れた瞬間終わりだよ」
「そりゃ、そうっすけど……。でも、それでも好きになっちゃったら止まらなくないっすか?」
「止められない人種もいることはわかるけど、僕は全然止められるね。浮気で得られる快楽より、バレた時のリスクと面倒臭さの方が勝る感じ」
「でも師匠、彼女いないじゃないっすか」
「やかましい。物の例えだろ」


 冷めた目でそう告げた努は疲れたように席から立ち上がると、受付の方に視線を向ける。


「……昨日の件に関してはそんなところか。まぁ、仮に何も話さなくても探索には支障はなさそうだったね。流石は魔流の拳、正統継承者様」
「まぁ、あれっすね。あのー、仕事と生活は分ける的な」
「公私混同はしないタイプ?」
「まさにそれっす!」


 すっきりしたように指差してハンナも立ち上がると、努の隣にそそくさと移動しながら一緒に歩きだす。


「ディニエルについても何とかするよう努力はするけど、僕だけで解決するものでもないから過度な期待はしないでくれ。多分、ダリルとアーミラは大丈夫そうだけど」
「んー、やっぱり足撃たれたことが師匠的には許せないっすか?」
「三年前のことだしもう水には流せるけど、今後も何かある度に撃たれる可能性が頭にチラつくのはキツいかな。あと、エルフの恨みも長いって聞くし」
「うーん。じゃあこういうのはどうすっすか?」


 そう言ってハンナは昨日と同じように努の腕に抱きついた。


「もしまた撃たれたらこんな感じでサービスしてあげるっすよ~♪」
「その代わりにまた矢で射抜かれるとか、僕は御免だね」
「……じゃあ、ちょっとだけなら触ってもいいっすよ?」


 いたずらっ子のような笑みを浮かべて片手で自身の胸を差し出すようにしてきたハンナに、努は呆れ顔で返す。


「お前さ、僕が手を出さないことを前提に言ってるだろ」
「だって師匠はリスクばっかり考えるもんね~。やーい、腰抜けっ――あぁぁぁぁ!? ど、どこ触ってるっすかぁぁぁ!!」
「あまり調子に乗るなよ、馬鹿が」


 背骨をつーっとなぞるように翼の根元を触られた途端沸騰したように顔を赤くしたハンナに、努は満足したような笑みを浮かべて雑に彼女の手を振り払う。

 そして人混みの中を縫うように入っていった努を、彼女はまるで汚されたように自身を抱きしめながら座り込んで見送ることしかできなかった。

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