第781話 遥か昔
それはまだ種族ごとの言語が存在し、人々の大半が魔力を有し魔法を用いていた遥か遥か昔。今のように魔道具や魔石に頼らずとも探索者は魔法を使って魔物の脅威を退け、主婦は調理するための火を自前の魔法で灯していた。
今の基準で見れば全員が貴族に近しい人々であったが、それでも感染症に対しては無力だった。
冥熱病。それは特に免疫が強い若者が重篤化しやすい感染症であり、高熱が何日も続き死亡した者は数知れなかった。そしてその冥熱病は弱毒化していくにつれて赤子や老人も疾患するようになり、最終的に当時の全人口5割が亡くなったとされている。
そんな感染症から生き残るために人々は試行錯誤したものの、当時の魔法や技術では対処できない病だった。故に人々は祈りを捧げるしかなかった。
これから人生が始まろうとする子供たちの命をどうか奪わないで下さい。お願いします。神でも悪魔でもいい。この病から人々を救ってくださいと。
その祈りに意味はあるが、現象まで生じることは本来あり得ないはずだった。だが魔力を有する者がほとんどであるその時代に、人類が一斉に祈りを捧げたことで滲んだ魔力は一ヵ所に集まった。
「およ?」
既に特定の宗教を作り上げ、神の像や教義が最も厚かったイルミアという国。そこに全人類の祈りと魔力が自然と集められて生み出されたのが神華という存在だった。
その身はイルミアに定められていた神である神華そのものであり、性格もおおよそ引き継いで形成されていた。そして神華はその神にも近しい力を以てして冥熱病を消し去り、多くの命を救った。
「神華様! ありがとうございます!」
「うむ、苦しゅうないぞ」
イルミアで人々が作り出した宗教の神を基に作られた魔力生命体である彼女は、それからも人々を神という立場で見守り時には助けた。中には神に挑みたいと勝負を挑む人間もおり、神華はいきり立つ子供を相手にするように手解きした。
それは初めこそ善意で成り立っていたものの、その途中で神殺しを画策する人々の悪意に神華は晒されることとなる。
「何なのじゃ? 妾に助けてもらった命で、妾に牙を剥くとは」
その神殺しは神華の尋常ならざる魔力を貫くには至らなかったが、彼女はそんな悪意を初めて向けられたことで人並みに傷付いた。そして人々の住まう場所を下界と定義づけ、自身は天上に上がり数十年の間は姿を現すことはなかった。
その数十年間で神華は本能的に自分を裏切ることを出来なくした神竜人という種族を創造し、下界に降りる時にはその者たちに自身の守護を任せた。
そして二度目に裏切られた時は自身と同じ時を生きることを願って不死鳥を、三度目に裏切られた時は自身と対等な存在を望み神威を創造した。しかしそのどれもが神華に永久の安寧をもたらすことはなく、その孤独を癒すことはできなかった。
不死鳥は自ら鳥籠を破り世界に飛び立ち、神威は自身と同じ神には至れぬと判断され放逐された。やはり自分と同格を生み出すことは叶わないと理解した神華は、改めて人々を眺め続けた。
(人間とはかくも醜く、愚劣じゃ。かと思えば美しく高潔な者もおる。いいところだけ摘まむことはできぬものじゃな)
そんな仮の結論に至った神華は数百年は下界を拒み世界を見渡すだけに留めた。そして気分が上向いてきた頃にまた下界へ降りようとした矢先に見たのが、迷宮都市で発生していた神のダンジョンだった。
そしてあの時放逐した時とは比べ物にならないほどの魔力と人々の祈りを得て、神威は神華の関わりをも拒絶できる力を手にしていた。今も使徒に近い人間たちにすら神の見えざる手足を完全に無効化される始末であり、神威が自分に並び立つ力を有しているのは明白だった。
「神の見えざる手足」
神竜人とそれが守る緑髪の女に対しては通用する。だが地団駄を踏むようにして本気で踏みつけようと、思いっきり握り拳を握っても彼女たちは潰れない。
そのことに神華は苛立ちを覚えていたが、その口角は気味が悪いほど上がっていた。自分が全力を出しても潰れない人間たちを前に、彼女は神として生まれて初めて心が湧きたっていた。
神華は大きく手を広げ、神竜人の奥で縮こまり様子を窺っている神威の器たちに呼びかける。
「どうした、攻めてこぬのか? 手足が通じぬのはわかった! だが妾を害することは叶わぬのか!?」
幾多もの強者たちが自分に挑み、神の手足を前に敗れてきた。数十万の人々の魔力を集めた結晶に対し、たった一人の人間が勝てる通りもない。だがそれでも強者たちは飽きもせず試行錯誤を重ね、神に挑んできた。
神の手足があまりにも強すぎるのでそれを使用せずに勝負をしたり、弱い人間に受肉して戦ったこともあった。そうすれば良い勝負になることもあったが、本気を出せばすぐに勝利してしまう事実があるが故に神華が心から闘いを楽しめることはなかった。
だからこそこの状況に胸躍っている神華であったが、アーミラはその挑発にも乗ることはなかった。努からの指示でまだ時間を稼ぐよう厳命されているからだ。
「なんじゃ、つまら……」
それに神華ががっかりしているのも束の間、彼女の顔面に向かって星球が飛んできた。それを彼女は顔に手をかざして防ぎはしたが、想定以上の威力で弾かれ手の甲が少し傷んだ。その隙に飛んできた強矢は神の見えざる手で防がれる。
「……かなりマシな身体のはずなんじゃがなぁ?」
これまで受肉してきた中でも最高傑作といえる女の手をぐーぱーさせながらも、神華は合流してきた人間たちを改めて見据えた。
弱毒化とは感染力が弱まるではなく、人が死ににくくなる だよ
そして、死ににくいから罹患者が移動したり、看病した周りの人に感染したりもしていく