第804話 ぬっちょぬちょのぐっちょぐちょ
110階層のオイルアトラクション。ランダムに選出されるそのトリを飾ったのは刻印油の滴る滑り台だった。
既にその頂上へと辿り着いていたディニエルは敗者の服を身に纏い、両手でバランスを取っての体育座りで滑り始めた。DEXが半減しているため細かな調整を両手足で行い、その体勢を崩さぬまま彼女は滑り台から射出する。
フライも使えぬ自由落下。だがディニエルは空中でも体勢を崩さぬまま平行を維持し、長い台へと着地して滑っていく。
それに続いて努もしゃっと刻印油まみれの滑り台から飛び出し、最悪フライでズルする心構えをしながらも弾力のある着地台に安着する。そのまま黒い刻印油でするする滑っているところを、ディニエルがそいそいと投げた敗者の服が滑り止め代わりとなって止まった。
「中々やるね君」
「ここは嫌というほど潜ってた。この帽子も私が初めて手に入れてるから」
「シルクハット持ちは伊達ではないと」
重ね着している敗者の服を脱皮するように脱ぎ捨てていたディニエルは、マジックバッグから黒と白のシルクハットをチラ見せしてすぐに戻した。それに努は鼻を鳴らしながら彼女に倣って油まみれになった敗者の服を台の外に捨て、ディニエルが築いていた敗服を敷いての安全地帯に移る。
オイルアトラクションを蘇生なしノーミスで突破することで、スポッシャーは一切の戦闘を行うことなく突破できる。それで特殊ドロップするのが黒いシルクハットであり、逆にオイルアトラクションを一切行わず戦闘のみで討伐した際は白いシルクハットがドロップする。
ディニエルはその白いシルクハットを手に入れた初のPTメンバーであり、ここに潜った経験も数知れない。そのためオイルアトラクションもお手の物だった。
そして努も刻印士として活動した当初はこのオイルアトラクションに流れる刻印油を用い、無限に刻印をこなしてレベル上げをしていた。ただ一アトラクションごとに制限時間はあるため、やっていく内にそこらの探索者よりは慣れていった。
そんな二人が話している内に続いてきたガルムは、少し体勢こそ崩したもののさしたる怪我もなく着地した。最後に覚悟を決めて滑り出したダリルは若干斜めに飛び出し、コースアウトしかけた。
ただディニエルがカウボーイさながら縄を投げ、彼の進路を補助したことで事なきを得た。それを先にいる巨大なゆでだこのような見た目をしたスポッシャーは、前腕を組んで審議こそしているが手が出る様子はない。
「ぐへっ」
「ヒール」
不時着して肩から着地し声を漏らしたダリルに努は回復スキルをかけ、関節が外れていないか確認する。ダリルは多少の打撲程度だったので身体的な問題こそなかったが、刻印油が頭皮にぐっちゃりと付着し嫌そうに口をもごもごさせていた。
「ぷっ、ぷっ」
「刻印するからじっとしてろよ?」
口の中に刻印油が入ったのか黒い唾を何度も横に吐き出しているダリルが着ている敗者の服に、努は刻印の紋様を書き込む。このまま敗者の服に刻印すれば身体に付いている刻印油も多少は消費されるため、油汚れが少しマシになる。
「…………」
ただこうも派手にすっころんでは髪、犬耳から尻尾まで油まみれなのは避けられない。このPTの中で実質的に失うものは何もなくなったダリルであったが、それでも若干の迷いはあった。
少しでも油汚れをマシにしようとしてくれる努に対してやるのは忍びない。だが彼の後ろにいるディニエルは首でさっさとやるよう促し、ガルムは神妙な顔のまま視線は逸らしていた。
「えいっ」
ダリルは床にある刻印油でぬめる手で掬い上げてから努の頭をわしゃわしゃとした後、そのまま首まで侵した。そんな彼の凶行を前に努はピシリと表情を固まらせる。
そして刻印油が頭を伝って頬を流れる中、まだかけてくる彼を無言で見つめ返す。そんな氷点下の視線を前にダリルは気まずげに唇を震わせた。
「えっと……ここを強行突破したツトムさんは知らないと思うんですけど、ノーミスじゃない場合、スポッシャーの弱体化はPTメンバーが油まみれになっているかも大事になるんです」
「はぁ」
「PTの過半数がそうなってるとスポッシャーが弱体化するのでそれをする必要があってですね……僕だけだと足りないので、ツトムさんにお願いしようかなと」
「何なんだその仕様は」
単に日頃の恨みを晴らしにでも来たんじゃあるまいなと、努は後ろにいたガルムとディニエルに目で問いかける。だがそれより前にスポッシャーが前腕をくねらせてぬちょぬちょとしていた。その見たことのないモーションを前に努は彼の言うことに一理があることを察する。
「なるほどね。そんな仕様があるとは知らなかったな」
「尊い犠牲」
「悪いな」
「……まぁ、火力担当は必要か。ここでロストも馬鹿らしいし」
そのことをわかって遠巻きになっていたであろう二人に対し、努はため息をつきながら手元を敗者の服で拭ってからマジックバッグを漁る。そして前からドロップした刻印油を回収するために使用していたスポイトを取り出し、敗者の服によって流れがせき止められていた油溜まりを回収した。
そんな彼の行動を前にダリルはぬめる足元に気を遣いながら距離を取り始める。それを見越して努もすっ転ばないようにしながらじりじりと距離を詰める。
「つ、ツトムさん。待ちましょうよ? これ以上醜い争いをする必要はないんです」
「自分で油かけてきた奴が言える台詞じゃないんだよね。それに何で僕を選んだ? ガルムの方が元々油は付いてただろ。これが私怨以外にあるか?」
「これじゃあスポッシャーの思うつぼですよ!? あれは探索者がぬるぬるになればなるほど嬉しがるんです!」
「やけにスポッシャーの生態に詳しいね。深夜の神台でもこっそり見てるのか? 糞野郎」
「ちょまっ!? うわぁぁぁっ……!」
そしてスポイトから水鉄砲の如く発射された刻印油が直撃し、ダリルはぐちょぐちょのぬっちょぬちょになった。それから努に足で押されてカーリングのように滑ってくるダリルの様を、スポッシャーが満足げに頷きながら見つめていた。
それからスポッシャーはほどなくしてディニエルとガルムに敗れて光の粒子となっていったが、それでも何処か悔いはなさそうな顔はしていた。
エッッッ