第530話 情報員とレモン水

 

「……もうあまり猶予はないな」


 数ヵ月に渡った160階層の攻略もいよいよ佳境に迫っている。マデリンと同じようなフードを深く被ったアルドレットクロウの情報員は、帝都への短期出張によって生まれた空白を取り戻すように神台を観察していた。

 この数ヵ月で一軍の対ウルフォディアは完璧に等しくなっていたが、やはり二人だけでの階層主戦は無理がある。それでも完璧以上を叩き出せるあの二人なら突破も可能であると結論付け、アルドレットクロウは一軍PTへの投資を惜しまなかった。

 その投資の甲斐もあってか160階層突破の第一候補はアルドレットクロウの一軍が揺るぎなく、この調子なら他のPTが停滞している間に170階層まで辿り着ける未来すら想像できた。

 だが努がバラまいた刻印装備によって、その青写真はぐちゃぐちゃに握り潰された。一応それはアルドレットクロウの一軍にとっても有益ではあったものの、他のPTの方がその恩恵は明らかに大きい。


「ぎゃいいいぃぃぃぃ!!」


 聞いているこちらの顔が思わず引き攣ってしまうような甲高い悲鳴を上げている紅魔団のミナは、140階層のタンク用刻印装備を手に入れたことでウルフォディアの攻撃を受けても死ななくなった。

 ただそれでも蟲化により肥大化した黒々とした腕で浄化の剣を完全に防ぐことはできず、彼女は千切れかけているそれを涙目で切り離した。そして新たな腕を切断面から押し出すように再生して戦線に復帰した。


(もう脅しも効かなくなったようだし、必死にもなるか)


 それは傍から見れば子犬でも戦わせているような有様だが、何もヴァイスが鬼畜というわけではなくミナ自身が望んでのことだ。

 今回のスタンピードで虫系モンスターの一部が彼女の命令に背いたことは、紅魔団だけでなくアルドレットクロウでも確認されていた。既にあの悲劇から数年経とうとしているが、未だにミナを恨んでいるクランメンバーは存在している。その兆候をそんな者たちが見逃すわけがない。

 それこそ迷宮都市に来た当初は女王の自分を殺せば虫系モンスターが大挙して迫ってくるなんて脅しのおかげで立場を確立していたものの、今になってその前提が崩れかかっている。

 だからこそミナは160階層の攻略に必死になっていた。自分の利用価値を迷宮都市に改めて示し、その異質な存在を認めてもらうために。


(あれではむしろ逆効果だがな。それでも武力による脅しで立場を確立させただけに、強さの証明に縋る他ないか)


 まるで大量の卵でも生み出すように欠損した体を再生させ、頭から触角を生やし手足を虫々としたものに変形させる化け物。それが強さを証明すればするほど、人はむしろ脅威を感じて排除しようとするだろう。

 それよりも今まで通り紅魔団で和気あいあいと探索して、観衆に親近感を覚えさせる方がよっぽどまともな生存戦略だ。

 寡黙だが自身も化け物という自覚があるからかミナに対して全く恐れがないヴァイス。それに良くも悪くも俗っぽいアルマも、もう彼女を大して恐れていないのか喧嘩の時には虫除けのお香を焚く始末だ。

 ただその悲惨な境遇と蟲化というユニークスキルのせいか距離を置かれることがほとんどなミナには、その雑な扱いがむしろ心地よくもあったのだろう。なのでアルマと馬鹿みたいに言い争ってはヴァイスが窘める様は、今となってはちょっとした家族コンテンツ化していた。

 時折小さな神台ではシルバービーストなどが孤児を引率する映像が流れることもあるが、まだ子供のような外見をしている者が上位の神台にまで映ることはミナ以外の例がない。

 存在しえない者が上位の神台で視聴できるギャップと、その幼き身体からは想像もできない力を持つ彼女を許容できる紅魔団。だからこそ他に類を見ない存在に成り得たのだが、二人PTということもあってかあれではただ単に化け物が暴れているだけだ。


(だからこそ160階層においては脅威に成り得る。プロパガンダが成功すれば収まるだろうが)


 今のミナはまさに追い詰められた化け物というだけあってか、皮肉にもウルフォディア戦での活躍は目覚ましいものがある。だがそれがむしろ逆効果ということをミナに体感させれば勢いを削ぐことはできるだろう。

 そんな二番台から視線を外した彼はアルドレットクロウが全滅したことによる繰り上げで一番台に映っていた、奇妙な構えを見せる鳥人を見つめる。


「おひょー!」
(あれに関しては止めようがない。ステファニーとディニエルを信じるほかないな)


 だんだんとウルフォディア戦にも慣れてきたからか、闇の拳を放ち浄化の剣と鍔迫り合いをしているハンナ。まだユニークスキル認定されていないことが不思議でしょうがない次代魔流の拳継承者。

 魔石から直接魔力を供給することで得られる驚異的な火力に、それを幾多もの流派に変換して放てる応用力。ただ魔流の拳を扱うことに失敗した時の強烈な反動や、魔力を補充する際に隙ができてしまうことが欠点でもあった。


「どんどん行くっすよー!!」


 ただ迷宮都市を離れ一年以上かけたメルチョーとの修行でその欠点は薄れつつある。そして火力一辺倒だった魔流の拳のバリエーションも広がり、目眩ましや自身のバフなども行えるようになった。

 それに明確な弱点であった魔力補充も、対ウルフォディアに慣れて相手の隙も窺えるようになってからは問題なくなった。初めこそウルフォディア戦に慣れていたコリナがミスばかりの彼女を引っ張り上げることが多かったが、今となっては一人で戦えるくらいだ。


(幸い、装備自体の差はあまりない。投資した甲斐があったと思わせてほしいものだな)


 ただ無限の輪には刻印装備を広めた努がいるにもかかわらず、何故か一軍の装備は140階層相当のところで留まっている。確かに自身の影響力や金を一年間も捨ててまで魔流の拳を極めて帰ってきたハンナは脅威だが、その度合いで言えばディニエルも負けてはいない。

 生きる伝説である森の薬屋のエルフが認めた資質。それはエルフの里にいた数十年もの間に幾多ものスタンピードを乗り越え、周辺のダンジョンを全て踏破し迷宮都市に辿り着いた頃には既に完成されていた。

 そして90階層で一度折られたことでそれを補って余るほどに成長し、アルドレットクロウの一軍という環境で研ぎ澄まされてきた。その実力は迷宮都市の中でも生粋の物であり、数少ないその他エルフと比較するのもおこがましい。

 それを支えるステファニーもまた白魔導士の女王に君臨する存在であり、ディニエルを折った努の弟子でもある。そんな二人の攻略を後押しするのが半端な刻印装備ということが、情報員としては歯痒かった。

 アルドレットクロウ。今や迷宮都市一の規模を誇る大手クラン。そんなクランが一軍に最善の装備すら与えられないのならば、何を大手とのたまえるのだろうか。


(それも、結局はツトムが壊した。そしてそれを今まで制限していたロイド。その理由が帝都にあると踏んでいたが……)


 その刻印装備は三年ぶりに迷宮都市へと姿を現した努が一から作り上げた。そして刻印士を含めた様々なサブジョブのレベルが上がらないよう制限していたのは、複合的な要因があるにせよロイドが絡んでいるのは間違いない。

 その原因を探るべく彼は秘密裏に帝都へと向かい、現地の情勢やロイドに関する情報を集めていた。ただ集めた情報を精査したものの二人の考えの影を掴むことは難しかった。

 百階層を攻略した後に突如として姿を消した努。その足取りは王都と密接な関係にあるバーベンベルク家と、神のダンジョンを持つ迷宮都市の秩序を守る警備団ですら掴めなかった。そのことからして努はその二つの手が届かない帝都に向かったのではないかと推測はされていた。

 ただ彼の足取りは帝都でも全く掴めなかった。それこそ神隠しにでもあったかのような痕跡の無さであり、神の子説を信じたくなるほどだ。

 その点ロイドの情報は帝都に行けばおおよそは掴めた。だがその情報を下にしても彼がサブジョブを制限した理由を推察するのは困難だった。

 元々帝都は王都の仮想敵国ということもあり、初めは神のダンジョンのある迷宮都市にスパイとして送られたのだと予測されていた。だがその前提は帝都にも神のダンジョンが出現したことにより、一変してしまった。

 何せ帝都と迷宮都市の神のダンジョンはステータスカードが共有されている。それはいわば同じ神の庇護下にいるといってもいい証明である。正確な定義の違いによる細かな諍いこそあれ、少なくとも探索者やそれに関連する者たちの交流は良好である。

 それに帝都も神のダンジョンの出現により、魔石、ダンジョン産のドロップ品などが定期的に供給されることでより豊かになった。階層ごとの転移ができないなど迷宮都市と比べると不便なところこそあるものの、帝都からすれば枯れない金鉱山を見つけたようなものだ。

 そんな時に王都と戦争などしている暇はない。むしろ交易をより活発化させた方が互いの利益としては大きい。勿論それでも性質の違う神のダンジョンの視察は行うべきだが、何も迷宮都市の利益を損ねて反感を買うような真似はしないだろう。

 ただそれでもロイドがサブジョブのレベルが上がりにくくするような遠回しの施策をいくつも取っていて、それを突然帰ってきた努が壊したことも事実だ。ロイドの行動はまだ帝都のスパイ説で一応の説明がつくとはいえ、努の行動は不可解でもある。


(あんな真似をする者が、神の子なわけもない)


 それもまた神の子だからと陰謀論じみたことを興奮気味に話す情報員もいたが、それなら努が行った百階層での行動が説明できない。24時間制限の黒を超えても尚神台に映る努の姿を、彼はその目で確認していた。

 それはいわば神のダンジョンの禁止事項である、人殺しや黒門での逆流を試すようなものだ。禁止事項を破ったと神に判断された者は、二度と神のダンジョンに潜ることは叶わない。

 とはいえ、人殺しをした探索者が初めから一発で神のダンジョンを追放されたわけではない。初めは特に罰則こそないが、人殺しが繰り返されるにつれて装備の全ロストが確認された。

 その二段階目では止めを刺した方の腕が欠損したまま黒門から吐き出されるようになった。そして三段階目で神のダンジョンを追放されてステータスカードを剥奪され、それから天罰の内容は変わらなくなった。

 ギルドにある黒門の逆流による階層更新においてもおおよそはその流れだ。初めこそ何も起きないが、それを利用していくにつれて重い天罰が下るようになる。最後にはステータスカードが剝奪され、探索者はただの一般人に成り下がる。

 ただその歴史を知っていれば、禁止事項でもそれを初めて発見し行動に移した者であれば不問になることはわかる。

 だがそんな歴史がわかっていたところで、本当に禁止事項と思われることを自身で試す輩はそういない。神のダンジョンの恩恵を散々受けている探索者なら恐ろしくて出来ないだろうし、神を信仰している大多数な者もそんな罰当たりなことなど出来るわけがない。

 それもまた神の子の反抗期故のことである。そんな主張を陰謀論だと一蹴することこそしないが、神の子説もロイドが流している可能性が否定できないためそれに乗っかるだけでは情報員の名が廃る。


(……あれが嘘だとも思えないしな)


 何よりその情報員は、努がこれまでどのように探索者として活動していたかを良く知っている。探索活動をしながら休む間もなく神台市場に通いつめ、迷宮マニア、屋台を切り盛りする者、魔道具職人など、神のダンジョンに関連する者たちと楽しげに交流する様。

 一介の迷宮マニアとして接したことがあり、孤児の引率みたいな三人PTだった時から努のことを知っていた彼は、懐かしむように金色がかった柑橘水を口にした。

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