第425話 毒蛇の目にも涙

 

 クランハウスのリビングで炎の魔石をがじがじと食べていたサラマンダーは、玄関の開く音が鳴ると同時にパッと頭を上げた。そしてそわそわとしながら扉の前で待機し始めたその様子を見て、三年前より背も伸びて以前に増して大人びた雰囲気になっていたリーレイアは放置された魔石を巾着袋へとしまった。


(今思えば、ツトムが異様なまでに精霊から好かれていたのは異世界人だったことが関係していたのかもしれないですね。他にも精霊術士を多数見てきましたが、あそこまで気に入られている人は未だに見たことがありませんし)


 今ここでウンディーネやノームを召喚すれば普段では一切見せない女体にでも変化し、サラマンダーと同じような行動を取るだろう。そしてその精霊の異常な反応からして、ハンナがギルドで言っていたことが戯言ではないことを彼女は理解した。


(本当に帰って来たのか。ガルムたちに残した言葉は方便ではなかったと。……いや、本当にそうなのでしょうか? 例えば、帰った世界でまた不都合でも起きて仕方なく帰って来たということも、あの男なら有り得る話でしょう。それか強制的に帰らされたということだってあるかもしれない)


 ただ約束通り帰って来たというよりも、そちらの方が理由としてはある意味で納得はできる。そしてリビングの扉をハンナが開けた途端にシャカシャカと足音を鳴らして走り去っていった元気なサラマンダーを見て、努の帰還は確信へと変わった。

 ギルドでうざったいほどテンションを振り切って騒いでいたハンナに苛立って一人クランハウスへと帰ったリーレイアは、万が一努が帰って来た時にどうするのかは考えていた。

 それこそアーミラのように感情にでも任せて一発ぶん殴ってみるだとか、ディニエルのように年長者のように振る舞って冷めた対応をしてみるとか。いっそのこと剣でも抜いて本気で殺しにかかることだって選択肢の一つとしては有り得る。

 だが初めにリビングの扉をハンナが開けたことからして、努も自分が何かしてくることは想定しているのだろう。それこそガルムでも傍につけて守られているに違いない。

 それなら敢えて満面の笑みで迎えてあげた方が恐れてくれるだろうか。それともエイミーのように好き好きとでもいって抱きついた方が不意をつけるだろうか。いくらガルムでも表向きには努に好意を向けている女性を退けることは容易ではないだろう。そして油断した時に鳩尾へ一発入れて努には無様に地面を這いつくばってほしい。

 クランハウスに帰ってきてから一通り考えていたことを改めて頭で巡らせているうちに、その対象者はのこのことリビングに入ってきた。

 彼はこの三年間で多少は鍛えたのか、身長こそ変わらないが身体自体は少し大きく見えた。特に足の鍛え具合は服の上からでも多少わかるぐらいだった。それに少し日焼けしていて人相も以前よりは丸くなっていたし、髪型もちょっと短くなっていたので一瞬見ただけでは努だと判別がつかないほどだ。


「……えっ?」


 だがその癇に障るような声は間違いなく努だった。そんな彼は珍しく間の抜けたような声を発して目を丸くしていたので、リーレイアも気になって尋ねた。


「どっ、どう……」


 どうかしましたか、と普通に尋ねたつもりだった。だが普段よりも声は大分上擦り、不意に視界が滲んで頬を水滴が伝った。それが涙だとわかるまでにリーレイアは少し時間を要した。

 何故ここで涙が出たのか、意味がわからなかった。もし努と再会して感動のあまり涙が出たのだとしたら、まだ涙は零れているはずだろう。だが涙自体は既に止まっているし、感情だってちゃんと抑えられている。

 そもそも、泣くにしても段階というものがあるだろう。自分だって泣いたことは幾度とあるのでわかるが、感情が次第に昂る内にじわじわと涙は出るものだ。突然涙が出たことなんて今まで一度もなかった。それが何故、今になって。

 そんな内省をして何とか自分を落ち着かせようとしていたリーレイアに、努もまた尋ねた。


「……えーっと、演技とか――」
「っ!」


 努の言いたいことをすぐさま理解して頭に血が上った彼女は手元にあった巾着袋を投げつけたが、事前に張っていたであろうバリアによってそれは防がれた。そのことが更にリーレイアを苛立たせる引き金となって、彼女は近くへあった適当な物をところ構わず思い切り投げた。


「ふっ、ふざけっ……! ばかぁぁぁぁ!! このっ、くずやろぉぉぉぉ!! 死ねっ! しねぇぇぇ!!」
「いやっ、悪かった! そうだね、リーレイアはそういう奴でもなかったね!」
「ああぁぁぁぁぁぁ!! うるさぁぁぁいぃぃ!!!」


 それから栓の蓋でも外れたようにリーレイアは泣き出してしまい、とても話にはならなかった。初めはこんな男の前で涙を流してしまったことへの悔し涙だったが、その感情が収まっても止まらない涙に彼女は困惑しっぱなしだった。

 その後リーレイアは驚いた様子のオーリとコリナに介護され、努は少し怒った顔つきのハンナからバリアを全て割られ、誠心誠意彼女に謝るよう折檻された。そして散らかった物の後片付けをガルムとゼノがせっせと行った。

 それからしばらくしてようやく涙が止まり、何年も吹き溜まっていた感情を流し切ったリーレイアは、借りてきた猫のようにちょこんとソファーに座っている努へと近づいた。そして無表情のまま彼の正面に陣取り、その顔を静かにねめつけながらソファーに座った。


「……悪かったよ」
「それは何に対しての謝罪でしょう? もしかして女性を泣かせたからだとでも言うおつもりですか?」


 それなら今すぐにでも身を乗り出して拳で泣かせてやると言わんばかりの迫力がある彼女を前にした努は、思わず助けを求めるようにガルムたちを見てしまったが四人からは静かに首を振られるだけだった。それでもツトムは俺が守る、と言わんばかりに残っているのは赤いトカゲの見た目をしたサラマンダーだけだ。


「まぁ、今はまだ話し合いの段階ですから、身の安全を心配せずともいいですよ。それに、見る限りツトムもこの三年近い期間の間に随分と鍛えていらっしゃるご様子ではありませんか。おかげで私も気兼ねなく後で泣かせるぐらいの半殺しにできそうです」
「勘弁して下さい」
「それはそれとして、ツトムは今どのような状況なのでしょう。皆さん、何か聞いているようでしたら私にも詳しく聞かせて頂けませんか?」


 それからは努と長く話していたハンナが中心となって、彼の状況とこれからについては今この場にいる全員に知らされた。


「なるほど。では明日から探索者に復帰し、無限の輪から離れたダリルとの接触も図るということですか。なるほど、なるほどなるほど! それはいいことですね!」
「…………」
「なるほどっす!」


 何だか不気味なほど気分の浮き沈みが激しくなっているリーレイアに努は若干引きながら沈黙し、ハンナはそれが面白いとでも思ったのか少しおどけながら答えている。そんな彼女のおかしな様子を見てか、オーリは温かいお茶を出しながら進言した。


「一先ず、今日はもう皆さんお休みなさって、明日改めてお話をした方がよろしいのではないでしょうか? 探索帰りでお疲れでしょうし」
「そうですか? 私は逆に目が冴えていますよ。ツトムもそうですよね?」
「……まぁ、流石に僕はとことん話し合うつもりではいるよ。でも他の人は疲れてるだろうし、取り敢えずお風呂でも済ませてきたら?」
「私が監視しておきますので、皆さんお先にどうぞ」
「別に逃げはしないよ」
「さぁ、どうでしょう?」


 涙と感情を枯らしたからか瞳孔がかっ開いているリーレイアからは逃げられないと思ったのか、努は徹夜の覚悟を決めた様子でそう言うと深くソファーにもたれ込んだ。すると彼女も不気味なほど口端を釣り上げた笑みを浮かべた。

 それから努はリーレイアから一晩中、鬱憤晴らしに暴力を振るわれないよう対話は続けた。幸いにも今日は彼女も大分冷静さ自体は失いつつも、最後の線引きはあったのか半殺しにされることはなかった。


「私は泣いたのにツトムは泣かなかったですよね。拷問でもすれば泣いてくれますか?」
(はい、この話九回目ね)


 ただそのことを延々と引き合いに出されて暴力をちらつかされながら責められることがずっと続いたので、努は心の中で彼女の瞬きや同じ話題の数でもカウンティングする遊びをして真剣に聞いている感を出しながら対応するしかなかった。

 そして窓から朝日が見え始めた頃にようやく気絶するように寝てくれたが、その前に努は縄で逃げられないよう手足を縛られる形となってしまった。それから努は化け物が起きないよう小声でスキルの練習をしながら、ガルムたちが起きてくるまで耐え忍んだ。

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