第769話 人として
最近は休日の半日を蠅の王への家庭教師として使っている努は、今日も今日とてバーベンベルク家が秘密裏に作り上げた空中庭園に足を運んでいた。
蠅の王と初めて会った時からおよそ数週間は経過したが、人間と筆談コミュニケーションを取るための勉強は順調すぎるほどだった。努を介しての言葉であればほとんど齟齬が発生しないことから、互いの言語理解が急速に進んだためだ。
なので努は早々にやることがなくなったので、蠅の王が食べたいと言っていたパンケーキ作りに勤しんでいた。
「完全再現とまではいかないだろうけど、こんな感じかな」
『すごい……こんな味だったと思う!』
帝都の小麦粉も混ぜ込んだ平ぺったいパンケーキに、上に乗せた酸味のあるチーズも手作りし敢えて雑味を持たせた。そして庶民の間で広く広まっている蜂蜜を回しかけて完成したそれを前に、蠅の王は喜びで翅を震わせた。
それからバーベンベルク家の料理人と共にそれを何枚か試作品を作り、蠅の王はぺろりと平らげた。途中でミナもつまみ食いしたがあまり口に合わなかったのか渋い顔をした後、大好物のシュークリームで口直ししていた。
そんな彼女の口端についたクリームをヴァイスがハンカチで拭う。
「あまり食いすぎるな」
「ふぁーい」
今日は午後からそんな二人を連れて迷宮都市へと視察に行くようで、それにヴァイスが帯同する形である。努も念のため蠅の王の翻訳者として付いていき、その護衛としてはコリナが付く予定だ。
そんな父親と子にも見える二人を横目に、コリナも努に声をかける。
「何があっても私の視界に入る形は崩さないで下さいね?」
「……何だか僕まで子供扱いみたいだね」
「対人戦は子供並みなので普通に心配ですぅ」
「いやいや。僕ならこうしてこうきたところを……こうよっ」
「…………」
まるで腰の入っていない努のエルボーに生暖かい視線を送る彼女の目は、人の死期を黒い靄として視覚化することができる。そのため仮に努を害する何かが発生した場合はそれを予知することが可能であるため、護衛としてはこの上ない特性と武力を兼ね備えていた。
ただそんな彼女でも護衛対象を視界に捉えていなければその能力を発揮できない。故にコリナは努にも自分の視界から外れないよう意識はするよう忠告しつつ、彼と共に空中庭園を出た。
フライの使えない蠅の王はヴァイスが背負い、そのまま一団となって迷宮都市へと向かっていく。そしてヘイストの効果が切れかけた頃には門に到着し、バーベンベルク家が発行した紋章により迅速に手続きを終えて中に入る。
『うわぁ……!!』
迷宮都市に入って一番に目立つのは上空に浮かぶ神台の中でも一際大きい一番台である。空中庭園での娯楽として動画機を用いて映像を見ていた蠅の王は、それとも違う生の神台を前に喜びの声を漏らしていた。
「よし、それじゃ神台市場行こ! 案内してあげる!」
『うん!』
今回はミナも蠅の王の護衛という立場ではあるが、同時に初めて出来た後輩でもある。なのでお姉さん風を吹かせた彼女が駆け足で神台市場に向かって走り、それに彼も続いていく。その後ろから帯同者であるヴァイスや努たちも続いた。
神台市場へ足を踏み入れた途端、蠅の王は溢れんばかりの人混みと四方八方に浮かぶ神台の輝きに圧倒されたようだった。帝都では幼少期の記憶以外は虫の巣で過ごし、ここに来てからも空中庭園という隔離された箱庭で過ごしてきた彼にとっては刺激が強すぎるのかもしれない。
思わず足が止まり、その薄い翅を不安げに小刻みに震わせる少年。そんな彼の異変を敏感に察したのはやはり近しい境遇であるミナだった。
「ほら、迷子にならないようにしっかり掴まってて!」
ミナはそう言うと自分より少し背の高い少年の手を迷いなくぎゅっと握った。彼女にとって彼は同じ孤独を知る弟のような存在なのだろう。
『……うん。ありがとう、ミナ』
少年の羽音が努の耳には感謝の言葉として届く。ミナに手を引かれ人混みの間を縫うように進んでいく少年の足取りは、先ほどまでの不安が嘘のように安定していた。
それから二人は神台を観戦したり、市場にある屋台を巡って食材を買い込んだ。その中でもわたあめが気に入った蠅の王は、暗がりのフードを被ったままそれを口にして思わず身を震わせた。
『ツトム! これ美味しい! 何て言うの?』
「これはわたあめだね」
『美味しかったからツトムにもあげる!』
「ありがとう」
蠅の王から新たにわたあめを進呈された努は微笑を浮かべてそれを受け取る。そして嬉しそうに翅を震わせてミナの下へと戻っていく彼を見送った後、食べ歩きのしやすいポテトを購入して珍しく何も食べていなかったコリナに手渡した。
それを彼女は待ってましたと左手に持ち、そのまま口元に運んで栄養補給する。それでも努や蠅の王からは視線を外さず、何かが起きても対処できるよう右手だけは開けていた。
「……楽しそうで、何よりだ」
それから神台市場を巡ったミナたちが自由席で落ち着いたのを見計らったヴァイスは、ようやく一息ついた顔で呟いた。
「にしてもよくバーベンベルク家の許可が下りましたね」
「……バーベンベルク家としてもあそこでずっと匿うわけにもいかない。それに虫かごに閉じ込めておくのは良くないと、ミナが直談判したおかげもある」
「……一体誰の影響を受けたのやら」
「成長は感じる。あの見た目で止まってはいるが、少女といえるようにはなった」
ミナの監視役を引き受けてからもう四年以上は経っているヴァイスは、感慨深げに息を吐く。
「俺はダンジョンでモンスターに敗れ仲間たちと全滅したはずだったが、何故か一人だけ生き返り気付けばこんな身体になっていた。ミナはオルビス教が持つ特殊な寄生虫に適合した生き残りで、彼も帝の主導で行われた人体実験体を集めての蠱毒から生み出された」
事前に考えていたことであれば流暢に語れるヴァイスは、その黒く濁った瞳でポテトを頬張っていたコリナに振り返る。
「かと思えば不意にその目を宿したり、筋肉では説明がつかない強靭さを宿す者もいる。そしてそれがユニークスキルとして認定された時、その能力に一定の変化が起こることもある。……それが彼にも起こってくれるといいのだがな」
「……そうなったら一番でしょうね」
少なくともコリナは死神の目がユニークスキル判定を受けたことで視界が切り替えられるようになり、日常生活で黒い靄が邪魔になることがなくなった。それであれば蠅の頭に挿げ替えられた彼がユニークスキル判定を受ければ、それがマシになるかもしれない。
だが神威の使徒ではない努にそのような権限はないし、神華側に付いているヴァイスにそのことも言えない。なので努は言葉を選んだまま隣にいる彼と視線を合わせず、コリナは咀嚼しながら目を離さない。
そんな努の態度である程度は察したのか、ヴァイスは露骨に肩を落とした。
「そうか……。全ては神頼みか」
「そうなりますね」
「なら神に委ねる他ないか」
そこで言葉を切ったヴァイスは変わらず無表情だったが、言葉を紡ごうとしては口が詰まった。そのまま途切れ途切れの言葉を続けた。
「……ただ、それでも……協力、感謝する。ここに出られたのはツトムがミナに協力してくれて、言葉の理解が進んだことも大きい。せめてあの子供たちくらい、幸せになってほしかった」
「……どうにかならないんですか?」
そんな努の返しにヴァイスはゆっくりと顔を上げたものの、唇を噛み締めた。
「……こうして、今ものうのうと生きさらばえている。そしてまたこのまま一人、老いもせずに仲間を見送ることになる……。また取り残されるのは、耐え難い。終わらせてほしいんだ、誰でもいいから……人として」
「…………」
それはヴァイスの本心であるのだろうが、それを叶える手段を努は持ち合わせていない。彼は寒そうに身体を震わせていたが、コリナの目に黒い靄は映らなかった。
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