第709話 月は見えているか
今日のところはもうリーレイアに会わない方がいいと思った努は、まだ迷宮マニアたちと約束している会食の時間までには早いがクランハウスを出ようとした。するとフェンリルが当然のように玄関まで一緒に付いてきた。
「精霊祭でもなきゃ街中は出歩けないよ」
靴を履く様をじっと見つめていたフェンリルはそんな言葉にふすっと鼻を鳴らした後、ついっと前足で彼の腰を押さえて行かせまいとした。
そんなフェンリルに努は苦笑いしながら振り返り、大型犬よりよほど大きいその頭をわしゃわしゃと撫でた。すると氷狼は不貞腐れた顔のまま努が伸ばした手をあぐあぐと甘噛みした。
そして唾液でべとべとになった彼の指には、いつの間に半透明のリングが付けられていた。
単に唾液を凍らせたにしては冷たさはなく、実際に指から外してよく眺めてみても金属製の指輪にしか見えない。半透明故に見える内部は水色の冷気が流れ微かに発光しており、精霊輪に近い構造だった。
「……唾液を固めただけ、ってわけでもなさそうだね。付けてろって?」
『…………』
「いざとなったら割る感じ?」
その問いかけにフェンリルは意味ありげに尻尾を振る。そんなやり取りの間に本日の護衛兼、外食目当てのコリナとダリルがやってきた。
クリスティアからの神華にまつわる警告もあり、努は外出する際に無限の輪のメンバーと行動を共にすることがまた増えた。
ただ神華側は努の殺害が目的というわけでもなさそうであり、どれだけ強者で固めようが神華が乗り込みにでも来れば無意味である。なので必要なのは自分の身に何かが起きた際にそれを知らせる人員の数であると考え、護衛は警備団に任せることも多かった。
「留守は任せるよ」
『ワフッ』
フェンリルは曖昧に吠えてダリルの背を尾でしばいた後、玄関で体を丸めて不貞寝した。そしてなんでぇ? と言いたげな顔のダリルと苦笑いのコリナを連れ、努は神台市場へと向かう。
まだ会食まで時間があるので、努は二人に護衛代の前払いとして屋台の肉串をご馳走した。
「やっぱりここのハツは塩に限りますぅ。それにこの軟骨ももはや軟骨じゃないです」
「いや、タレのもも一択です。三本はぺろりです」
「おこちゃまが」
解説めいた口ぶりのコリナと、その言葉に違わず既に二本完食したダリル。努も彼女オススメの新鮮なハツの噛み応えに関心しつつ、二十番台から下へと向かっていく。三人とも帝階層は探索で嫌というほど見ているので、神台くらいは他の階層を見たいというのが総意であった。
「骸骨船長、いつになったら復活するんですかねぇ」
「三ヶ月か、下手すると半年かなぁ。一年は流石に重すぎる気もするし」
努たちが骸骨船長を倒して浮島階層を突破してから二ヵ月近く経つが、未だに飛行船が復活することはない。現状では横道として関係値最悪の状態での突破で動画機が確定ドロップしたり、アスモの祭壇が見つかったりしているため更なる発見を求めて浮島階層に潜る中堅PTは多い。
飛行船に納品する専用の宝がドロップする渋さこそあるが、金の宝箱がここまで出やすい階層も他にはない。中堅PTの金策や装備を整える階層としては打ってつけであり、最近努が依頼される刻印装備も浮島階層産の物ばかりである。
それに金の宝箱からは宝の地図がドロップすることがあり、それを骸骨船長に見せれば特殊な浮島に向かえる事象も発見されていた。そこで得られる特殊な効果を持つ装備の他、アスモの祭壇も宝の地図からでしか行けないのではないかと迷宮マニアが推察している。
浮島階層は広大とはいえ、飛行船から見える浮島以外には空が広がるばかりである。なので探索も地道に行えば全てをマッピングでき、迷宮マニアによって情報は整理され既に九割がた探索が完了している。あとは浮島内にある遺跡などの細々としたものが残るのみだ。
「帝階層にも何かしらありそうですよね。千羽鶴とか、謎の社とか」
「その辺りは迷宮マニアに調べてもらってるよ。無限の輪だとどうしてもマンパワーが足りないし、金策中で見つかったら儲けものくらいだね」
「ではそろそろ15人体制ですか……」
年齢的に引退を仄めかせていたコリナはふと視線を上げた。空の高みに浮かんでいる巨大な神台。その最高峰、一番台に自分の姿が映れる時間はあとどれだけ残されているだろうか。
「そうだとしたら誰入れるの? ソニア、クロア辺りは候補だけど」
「ユニスさんも入りそうじゃないですか?」
「女性多すぎ問題が勃発してるね。ルークとか引き抜けないかね。あと引退したミシルもコーチ枠として候補」
「ですね……。ゼノさんもクランハウスにはあまりいないので実質六対三なんですよね」
「まぁ、アーミラが実質男枠だから」
「陰口は止めてくださぁい……」
「それだとディニエルさんもお婆ちゃん枠ですね」
無限の輪の展望について妄想を膨らませている三人を、街灯の灯りが柔らかく照らしている。何処か遠くで楽器の音が鳴り、人々の喧騒を柔らかく包んでいく。
「それじゃ、そろそろ行こうか」
そろそろ会食の時間も近づいてきたので努が一声かけると、コリナとダリルは浮島階層を映していた神台から目を離した。そして神台市場を抜けて喧騒から少し距離を置いた路地裏の店に、三人の影がゆっくりと伸びていく。
何の目印もない扉を開けると、ややひんやりとした空気が三人を迎え入れた。隠れ家のようなそのバーは木の匂いが心地よく、低めに吊るされたランプから黄色みのある柔らかな光がテーブルを照らしている。
扉を閉めると喧騒はぴたりと遠のき、小さな音量で流れるジャズめいた旋律だけが残る。森の薬屋と同様に特殊な木材を用いて防音性を重視しているこのバーは、静かに酒と会話を楽しむには打ってつけの場所だ。
「それでは、私たちはこちらで」
「よろしく」
「大人っぽい……!」
そこでコリナは入口近くのカウンターに座り、ダリルはバーテンダーと挨拶を交わす彼女に気圧されながらも付いていく。努も一言残し、予約されていた奥のテーブル席へと足を運んだ。
半個室のようになっている席には既に先客が一人。黒縁の丸眼鏡をかけた迷宮マニアの男が琥珀色の液体が入ったグラスに口をつけていた。
歳の頃は三十前後の彼は座った努と目を合わせて会釈した後、さりげなく小さな紙片を机に滑らせてきた。
今宵の月は見えているか。
そう書かれただけの用紙に努は片眉を上げつつ、マジックバッグからペンを取り出しさらさらと書き記す。
白猫が見つけちゃった。
獣人対策の筆談を返すと迷宮マニアの男は目を見開き、静かに肩を震わせて笑った。
「敵わねぇな。今日こそはあっと驚かせてやると思ったのによ」
「驚いてはいるよ。おいくつなの?」
努も軽く笑って自身の目を指し示しながら尋ねると、彼は筆談で返す。
迷宮マニアの彼はまだサブジョブのレベル上げをすることが忌避《きひ》されていた時代から、秘密裏に鑑定を行いレベルを上げていた。それは立場のあるアルドレットクロウの情報員にはとても真似できない行為であり、さして立場のない彼だからこそ出来た。
鑑定士レベル52。そう記された文字に努は感嘆の息を漏らした。
「いや、よく上げたな。迷宮都市一じゃない?」
「それほどでも。それで、公表しても?」
「今なら堂々と胸を張って公表できると思うし、それで新聞の一面を飾るといいよ。僕も認識はしてたけど、詳しいことはわからずじまいだし」
「流星を見ていたら偶然な。それじゃ、そのように。……くぅー。俺の格好つけにわけもわからないツトムが、数日後にようやく理解して喚く姿が見たかった」
「まだまだだね。次回は期待しとくよ」
「うっうっ」
式神:月は俺が一番早く知ったと思ってたのにと半泣きの彼に、努はボトルに入った酒をグラスに注いで慰めた。
それから数分後には他の迷宮マニアたちも続々と集まり、中堅PTの中で熱い浮島階層の情報交換から始まり、帝階層の怪しいポイントなどの噂話も飛び交い始めた。努は時に相槌を打ち、時に当事者である探索者としての目線で帝都階層の話題に花を咲かせた。
だがその夜。確かに見えている者同士の言葉は交わされ、それは近いうちに白日の下へと晒されることになる。飲んだことのない種類の酒を飲み目をきらきらさせているダリルに、努は詫びも兼ねて一杯奢った。
復活船長は自分がどんな存在か完全に把握してる状態になってる方がゲームっぽくて良いかな
探索、ボス戦、始めからを選べるとか