第754話 根無し草
それから努はまず蠅の王と二時間ほど話して彼がわからなかった細かい単語について擦り合わせ、そのメモをバーベンベルク家の外交官に渡した。
(そういえば僕は何の不自由もなかったから気にしてなかったけど、日本とここじゃ言語違うんだよな。ちゃんと日本語意識して書いた日記はクランメンバーも理解不能だったみたいだし、先生とは一体……)
蠅の王の羽音からでも言葉を翻訳できる能力自体は役立てるが、その便利機能があるが故に努は異世界言語についてあまり理解がないため教えることは難しかった。その理解がなくとも無意識的に話は通じているし、日本語で書いても意味は大方通じてしまうからだ。
ただ蠅の王は話した限りただの少年であるが、フードで隠しているその顔は蠅そのものでありミナをも上回る虫型モンスターの統制力を持った化け物である。それも現状は努しか正確なコミュニケーションは取れず、ミナは多少の意思が通じる程度。
そんな蠅の王に対して言語を教えられるような精神的余裕があり、かつその背後にいる護衛たちにも対処できる人材が必要である。護衛に関しては紅魔団が受け持つにせよ、いざという時に自力で対処する力がなければ教えることは難しいだろう。
(流石、バーベンベルク家の外交官は覚悟決まってるな)
ただ蠅の王を相手にでも言葉を教える人材自体はバーベンベルク家が抱えており、安全面についても障壁魔法を信頼しているため問題ないようだった。なので努は蠅の王が発する言葉の齟齬を修正するだけでよかった。
「……貴様、本当に理解できたのか」
「特異体質みたいなもんだね。それじゃ、また来るよ」
外交官と言葉を交わして驚いた様子のスミスにそう言い残した努は、どっと疲れた顔で空中庭園から出ていく。数年ぶりにコミュニケーションの齟齬もなく喋れる存在が現れ、テンション爆上がりな蠅の王の話に付き合ったせいか努はぐったりしていた。
そして夕方過ぎにクランハウスに帰ると、ゼノPTの面々は既に帰宅していた。とはいえ当のゼノは家族の待つ家に帰っており、クロアも今日は友人の誕生日会ということでシルバービーストのクランハウスにいる。
「帝都から厄介払いされた蠅の王、ですか」
「はえー」
「そんな厄介な者とよく好き好んで関わるものですね」
ダリルは少し現実離れした顔のまま呟き、コリナもそれに続く。リーレイアは面倒くさそうな顔で皮肉を零す中、説明を終えた努はソファーに背を沈める。
「一応、バーベンベルク家の案件だから言い触らさないようにね。とはいえ帝都に遠征してた探索者は大体知ってるみたいだし、ロレーナもべらべら喋ってたけど」
「まぁ、それなら貴族の箔はつきますか」
「基本的にヴァイスとミナが護衛してくれるとはいえ、流石に一人だと心細いからたまに護衛として付いてきてくれると助かるかな」
「わかりましたぁ~」
武力的にはユニークスキル持ちが二人に障壁魔法もあれば事足りるだろうが、努はあの外交官のように覚悟ガンギマリなわけでもない。そんな彼の提案にコリナは緩い声で答えた。
「にしても神の眼の謎、未だに見つかりませんね~。ゼノも何が何やらと困ってましたよ?」
「ふっふっふっ~」
「エイミー。高みの見物を決め込むのはよろしいですが、貴女は181階層で随分と苦戦しているようですが大丈夫ですか?」
「ふっ。ふふぅぅ~……」
「弱いものいじめはやめるっす!」
「誰が弱いじゃーーー!!」
「ぎゃーーー!!」
それからも雑談を交えながら八人で夕食を食べた後、努は自室に戻り刻印の図面を開いていた。181階層まで辿り着いたことでレベル上限が解放され、刻印士のレベルを80まで上げれば未知の刻印がステータスカードで閲覧可能になる。
(経験値UP(中)、サブジョブにも適用してくれよ……)
刻印士レベル70台からは上がり幅もかなり鈍っているため、80まで到達するには途方もない時間と刻印が必要になるのは明白である。ここまでは何とか駆け抜けられたが、この先は精神衛生的に、職人にも近い年月をかける心積もりでいた方がいいだろう。
それから機械階層の攻略にどんな刻印編成がいいかうんうん悩んでいると、控えめに扉をノックする音が響いた。努がどうぞと返事すると扉がそっと開かれ、コリナが顔を出した。
「どうしたの?」
「あの……バリアかけてもらってもいいですか?」
「……わかった。バリア、バリア」
入ってきて早々に申してきたコリナに従い、努は防音のバリアをかける。それが完了したことを目で告げると、彼女は気まずそうに歩み寄ってきた。
「先ほど仰っていた蠅の王についてですけど、関わらない方がいいと思いますぅ」
「へぇ? 何で?」
「紅魔団のヴァイスさん、神威ではなく神華側に付いているみたいですから」
そんなコリナの言葉に努の表情が少し強張った。そして暫し無言の時間が続いた後、コリナは話を続ける。
「実は王都に帰省した時に、ロイドから接触されてました。その時に神威や神華のことや、それを取り巻く事情や聖戦ついても聞かされてます。それを知った上で身の振り方を考えた方がいいと忠告を受けましたぁ」
「……何で、今になってそれを?」
その情報をぼやかすことも出来たであろうコリナに努が尋ねると、彼女は困り眉で答えた。
「しょうがないじゃないですか。何も理由を言わずにただ紅魔団と接触するのは止めた方がいいと言っても、ツトムさんは聞かなさそうですし」
「まぁそれはそうかもしれないけど……ほら、僕はその情報を一先ず隠してはいたわけだし」
「確かにそうですが……でもあの時、皆で集まってクランハウスでお話したあの時に嘘はなかったと思ってますよ」
「……コリナが椅子を食べたあの日の?」
「食べてません」
アーミラをも驚愕させたあの日のことを思い出した努に、コリナは半目で突っ込んだ。そしてやるせない顔のまま言葉を続ける。
「それに無限の輪に拾ってもらった恩もありますし、それを忘れて逃げ出したら罪悪感で逆に死にそうですぅ」
「コリナはいずれにせよ頭角は現してただろうけどね」
「わかりませんよぉ。白撃の翼に私より優秀な人なんていくらでもいました。でも頭角を現わせずに引退した人もいますから」
「確かに、それも一理あるかもね」
その人に確かな実力があろうとも探索者は五人PTで編成され、その時々のクランもある。そこで飛び抜けた成果を出せるのであれば大手クランに移籍も可能かもしれないが、それが出来るのはユニークスキル持ちくらいだ。
「神威と神華については、僕も迷宮制覇隊のクリスティアさんから聞いたのが初耳なんだ」
「え、そうなんですか?」
「だから判断に困って黙ってたのもあるね。一応そのために200階層まで一番先にいけば何かあるのかもとは踏んでるけど、聖戦やら何やら言われましてもって感じなんだよね」
「えーっと、ロイドが言うには、ツトムさんは神威の器という認識みたいですよ? その器であるツトムさんが神華の手中に収まれば、神威も動かざるを得ないであろうからその身柄を確保したいということらしいですが」
「神の子の次は神の器か」
「……あー、それじゃあツトムさんはロイドと違って神威の使徒というわけではない感じですか?」
「そうだね。手紙で書いた通り、一人でゲームクリアしたら特典がどうこう言われて突然この世界に連れ去られた感じ。神威とやらを実際に見たこともない」
そんな努の困り顔に、コリナも複雑な表情で腕を組む。
「うーん。ツトムさんが嘘をついていなかったのは何よりですが、使徒でないとなるとヴァイスさんを仲間に引き込むことも難しそうですね。ノースキルノーステータスについては知ってますよね?」
「うん、クリスティアから使徒が神のダンジョンで得たそれらを奪えるっていうのは聞かされてる」
「ヴァイスさん、それで不死鳥の魂を奪ってもらえれば人間らしく死ねるから神華に協力してるみたいです。なのでツトムさんが使徒であれば協力関係を結べると思ったんですが……」
お伺いを立てるようなコリナの視線に努は胸を張った。
「そんなもんないよ」
「ですよねぇ……。そうなるとやはり蠅の王と関わるのは危険ですよ。ヴァイスに身柄を確保されて神華に連れていかれるかもしれませんし」
「……ただ、今日は無事に帰されてる。多分ヴァイスも、ミナが気にかけてる蠅の王が言語を覚えることについては前向きだと思うんだよね」
「えぇ……? ツトムさんはそういうことならってさっくり切り捨てると思ってましたぁ」
「誰が薄情者だ? ん?」
今度は努が半目でコリナも見返しながらも、やり切れないため息を吐く。
「迷宮都市のスタンピードの時、母親の首を持つ女の子を見ないフリをした。それが何時までも喉に引っかかっててね。だからせめて今回の件くらいはミナに協力してあげたいんだよ」
「……そうですか。では護衛は任せて下さぁい! 力になれると思いますのでっ」
「え、それこそいいの? 単に危険が増すだけでしょ?」
「いいんですいいんです! 私はまだ根無し草ですから!」
彼はもう異世界出身の根無し草ではなくなっている。そのことが確認できただけでもコリナからすれば嬉しかった。
そして頼もしそうに肩を回した彼女であったが、根無し草ではない者も思い出して肩をすくめた。
「それとその……王都でロイドと接触した時にはゼノもいたんですけど。ゼノは私と違って家族もいる立場なので、ちょっと怪しいかもしれないです」
「あー……それはそうだろうね。まぁ、先に家族をダシに脅したのは僕の方なんだし、自業自得だと思っておくよ」
「とはいえゼノが明確に裏切るとも思えませんが……。思ったより器用な人ではありませんし」
「そうだね」
ゼノとは相性の悪かったであろうコリナの物言いに努もにっこり返しつつ、最後に改めてロイドからの情報を纏めて共有してもらった。
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